2013年2月24日日曜日

【おぼえがき】Cut-downs Benefits Takers

2013年2月22日のメモに"Do cut-downs bring us benefits?"としたためてあるが、これはどういう意味だっただろうか?
何かをふと思いついたに違いないのだが、ちょっと思い出せない。

日本におけるネオリベラリズムの登場はもうずいぶん前のことに思えるが、今でもその旗印は残っているし、それはアメリカでも同じである。3月1日の財政支出の強制削減をめぐる二大政党の駆け引きは2012年末と同じようにすさまじく、Deficit scoldsは健在で、そして民主党オバマ政権が日本に求めているのも「構造改革」である。

それではネオリベラリズムによる改革の手法はなんであったかというと、それは削減(cut-down)であると言って過言ではないだろう。権力に相対する個人という構図を前提とするこの主義主張は、小さな政府(支出)=減税を好む。国内では規制緩和と競争、対外的には自由貿易主義である。アメリカではここに緩い銃規制という単語も追加されるだろう。

2013年2月23日は日本にとって大きな意味を持つ日になるかもしれない。日米首脳会談が行われ、どうやらTPP(環太平洋パートナーシップ協定)交渉への日本の参加が表明される見通しとなったからだ。今後は再び保護主義と自由主義による、長くは続かない論争が日本国内で行われることになるだろう。「長くは続かない」、というのはもはや期限が見えているからである。そもそも、WTO体制の下で、多くの貿易障壁は取り除かれてきた。また、もっとも強硬に反対している農業団体は、近々その力を失っていくことが明らかである。高齢化が進んでいるのだ。

ここで述べておきたいことはTPPの是非ではない。社会のあらゆる場面で進むcut-downsの利益がどこに帰着するか、という議論である。
本来、削減の受益者は国民(Payer)であることが想定されている。本当だろうか?

間接税については、減税が消費者に与える恩恵は少ないという実証研究がヨーロッパでなされている。減税されても値下げされないのである。結局、利益を得るのは事業者、ということになる。だから複雑な軽減税率は回避されるべきなのである。
自由貿易の場合はどうか?これは難問である。なぜなら為替レートや資源価格の問題が常に存在するからだ。日本経済が浮上するかどうか、浮上したとしても金利はどうか。また、日本の最大の貿易相手国の一つは中国である、という点も見過ごすべきではないだろう。
財政支出の削減は、実は多くの国民に利益をもたらさない、というのが私の考えである。そのための減税で影響があるのはおそらく富裕層と法人だけだろう。そして、日本で財政支出削減とはすなわち社会保障費の削減を意味する(アメリカでは軍事費が大きい)。ここでは社会的亀裂が避けられない。

それでは少し分野を変えて「労働時間の削減」はどうだろうか?
まだ公論となってはいないが、労働時間規制である。労働時間規制は「削減」を目的とした規制であるので、これはむしろ保護主義である。しかし、cut-downが望まれている、という意味でよく似た「合理化」が目指されていることは確かだろう。問題はこれによってワークシェアが進むか、という点にある。全ての労働者と労働を望む者のための政策が本当に彼らを利するのか。私にはわからない。

削減は、経済の停滞期に行われれる政策であり、行政改革もすなわち削減を意味することも多い。しかし、それが誰の財布を潤すことになるのか。政策決定者の知性が試されるところである。

2013年2月22日金曜日

【おぼえがき】Everybody does it apart

人は、あらゆるものを分類せずにはいられないのだろうか?

分類―といえばより中立的に聞こえるかもしれないが、Karl Heinrich Marx(Ger, 1818-1883)はこれを階級あるいは階層(hierarchy)と呼んだ。マルクスとアナール学派の流れを汲むWorld-Systems Thoryを提唱したImmanuel Wallerstein(US, 1930-)も世界は階層構造になっていると考えている。

しかし、ここで述べておきたいのは、より人間、とりわけ近代人の精神的構造のことである。
Charles Robert Darwin(Eng, 1809-1882)の進化論は社会学にも重大な影響を与えたとされている。社会は時間を経るに従い発展しているという進歩概念はやはり人類の時間の考え方がこの時代に大きく変化したことを意味し、それはネオプラトニズム(Neo-platonism)の世界観である「流出論」と調和して世界の見方にグラデーションを与えているように見える。人間は、世界の根源たる神の下から去り、時ともに「成長」を自ら実現させることになったのである。

一般に、科学的思考は複雑な物事を分別し、分化させ、分散させるという働きを持つと言えるだろう。この科学主義はまさに近代の産物であったが、現代では危機に瀕しているのかもしれない。
科学主義の成果は、社会においてはとりわけ「分業」を達成した点にある。その手法は(労働)人口と資源(財)がともに増加する時代に適合していた。しかし、経済の拡大局面が終わると、それは新たな「身分」や「階級」の問題として社会的な注目を集めるようになっている。経済学で「既得権益」(rent)と呼ばれる問題群もこれに含めてもよいだろう。政治学・行政学では「官僚制」や「セクショナリズムの弊害」と呼ばれる問題と同質の問題である。直近マスメディアが取り上げたがるようになった「いじめ」と「体罰」も同じかもしれないし、スクールカーストという新しい用語も登場している(この辺りは日本の社会資本の問題も絡んでいそうでもある)。とりわけ現在の日本を騒がせているのは正規労働者―非正規労働者という新たな「闘争」の問題である。

これらの問題群には同じように「差別」や「区別」という人間の深い無意識の底から浮かんでくる欲求的な何かが潜んでいるように思えてならない。個々の人間が全く同じでないのは明らかだが、その相違を社会的な(つまり人間関係における)特徴に結びつける、という点で非合理的な(主観的)心理的作用である。日本では正社員と非正社員の違いは入社プロセスの違いであるが、これを待遇の差に直結させ、そして正社員も(自らは奴隷のように働きながら)非正社員に対しある種の優越感に浸る場合もしばしばである。

これは科学主義とは全く異なるものである。なぜなら科学主義の目指した客観性と合理性の原則とは正反対の方角を向いているからである。しかし、区別(あるいは差別)は近代科学主義のそれと同じもののように見える。これは近代以降に人間に埋め込まれた厄介な遺伝子なのだろうか?

西欧的な意味での(古典的)リベラリズムは、究極にはこれを乗り越えようとする思想である。公法学の世界ではウィーン学派に属するHans Kelsenの一般国家学がこれにあたると言ってもよいだろう。普遍的な国家像を求めるために脱宗教化しつつも、しかし、この議論が神学との隠れた連続性を見せていることは決して偶然とは言えない。神学が追及し続けた世界に関する合理的な説明を近代に引き継ぎ、それと同時に前近代と調和させるものであったのかもしれない。

これは科学主義の生み出す非合理性を科学主義の合理性で解決しようとした例である。現代の多くの学者たちもこの方法で世界を描き、発展させようとしている。しかし、忘れてはいけないのが、進歩主義が近代の産物ということである。人口が大きく増減することのなかった前近代は、「進歩」という概念がない時代であった。これから到来する時代は前近代と同じものかもしれない。現在人類は岐路―時間と共にゆっくり進歩を成し遂げていく道と、もはや時間概念がなく、ただただ長く、認識すらできない道が標識に示されている―に立っているのだ。我々がどちらの空間に存在しているのかは、ずっと後の時代の歴史家が教えてくれるだろう。残念ながら、誰も認識する手段を持ち合わせていないのである―神でないかぎりは。

2013年2月21日木曜日

【かんそう】Too Bad

He will never break down but have never grown.

2013年2月20日水曜日

【おぼえがき】ナショナリズムと血と地

Yakov M. Rabkin(2004)によると、シオニズムは脱宗教化と西欧的民族主義によって生み出されたものであるという。
("Au nom de la Torah: Un histoire de l'opposition juive au sionisme"(2004) 日本語訳版は、菅野賢治訳(2010)。)

ユダヤの民は血縁関係によって同定されるものではなく、トーラーに従って生活する者であるかどうか、という一点のみによって識別される。本書は、シオニズムがもはやユダヤの教えから離れたロシア帝国領下の(旧)ユダヤ人たちによって創始され、それがバルフォア宣言(1917)はもちろん、それより以前から敬虔なラビたちから批判され続けてきたことを描く歴史書である。

ユダヤ人とは、預言者を通じて神の言葉を受け取った集団のアイデンティティを指すものであって、すなわち民族的アイデンティティでも政治的アイデンティティでもない、純粋な宗教的アイデンティティなのである。したがって血や土地に関する結合を目的としていない。ユダヤの母から生まれた子がユダヤとは限らないのである。

シオニズムはユダヤ固有の運動に見えて実はそうではない。
その創始者たちは西欧的な民族主義を身にまとった啓蒙主義(ハスカラー)者たちであり、すでに脱宗教化した知識人であった。彼らが東欧における迫害を逃れるために唱えたのが「約束の地」への民族集団的入植だったのである。

そして筆者は、シオニストたちがパレスティナの地に対する執拗なこだわりを見せている事態をユダヤの危機と捉えている。というのは、神の導きなき(人為的な)約束の地への帰還は重大な教義違反であり、しかも、アラブ人との間に大きな軋轢を生んでいるからである。従来、この地に住まうユダヤたちはパレスティナ人たちとも共存してきた。シオニストたちがこの地にもたらしたのは西欧的な民族主義に感化された血と土地への強い帰属意識と排外主義、そして、ユダヤの名を借りた脱宗教=世俗政治である。そこでは、世界の全ユダヤ人を代表しているという偽りの自負の下、歪んだ歴史教育と戦争が肯定されるのである。

翻って、ここでは西欧的民族主義と脱宗教化現象の姿を透かして見ることができる。
ナショナリズムは、自己の民族の正当化根拠に歴史と用いる。そして、脱宗教化しながらも宗教の魔術を民衆意識にかける。その重要なファクターが血と土地なのである。ナショナリズムが血と土地に強い執着を見せるのはこのような理由である。誤ってはいけない。宗教も、血も、土地も、場合によっては言語でさえ、国家とは本来無縁の存在なのである。

そして、ここからはなぜ国家が中立でなければならないか、という憲法学的な議論をも引き出すことができるかもしれない。ヨーロッパでは、ナショナリズムに取り込まれやすい要素を中立原則の下で国家から引きはがすことが試みられた。しかし、唯一国家が無視することができない要素は領域であった。それはむしろ当然であろう。領域以外に国家を識別する方法がないからである。このように考えるならば、中立原則は「民族的アイデンティティ」になりうるものから国家が中立であることに端を発すると言って差し支えない。(オーストリア帝国でHans Kelsenが目指した一般国家というのはこのようなものではないかと思われる。)

そして、中立原則がアイデンティティの要素の多くを覆い隠すことができたのは経済(成長)によるところも大きい。特に世界大戦前後に国家の重要な任務が経済と福祉にシフトしたことはこれを示しているかもしれない。(ただし、経済政策はそもそも国家に可能なのか、という根源的な問いを忘れることもできない。)

しかしながら、この仮説は近代国家の悲劇的な展開だけを後に残してくれる。
もし政府が経済と福祉の政策に失敗したなら、あるいはこれ以上経済と福祉の発展を見込めなくなったとき、国家の辿る道は二つしかない―統治能力を失って瓦解するか、もはや国家とは本来何の関係もない、アイデンティティに見えてしかし何の実体のない卑俗なスローガンで民衆を煽動するか―。そして、実はこのフェーズに既に我々は到達しているのかもしれない。憲法改正の議論で良識ある真の保守派が実力で敗北し、国民に厄介に歪められた歴史観が植えつけられるのだとすれば、それはすなわち悲劇の幕開けを意味することになるだろう。

2013年2月17日日曜日

【おぼえがき】過程の支配者

A Man who sets procedure knows destination.

行き先を決めることは我々の仕事ではないが、行き先を検討する過程を支配することで結論が誘導されることが十分にありうる。
この点について、多くの人間が気づいていないことは不幸である。


ところで、メンバーシップ型の雇用制度とジョブ型のそれについて、日本において進歩的な論者は一刻も早くジョブ型のそれを導入すべきと考えるが、これはどのように移行されるのだろうか?

一つは自由放任しておけばジョブ型に移行するという考え方である。これによれば、厚生労働省が何らかの政策を実施しなくても労働市場がそのような方向に進んでいくことになる。もし、いわゆる非正規労働が今後も一貫して増加するのであれば、ジョブを労働者ごとに切り分けていくことになるだろうから、自然にジョブ型に接近するかもしれない。

二つ目の移行モデルは、市場に任せてもジョブ型に移行することはないか、もしくは遅すぎるので、何らかの政策的介入を必要とする場合である。それにはまず、なぜジョブ型に移行しないか(あるいは移行が遅すぎるのはなぜか)という問いに向き合わなければならない。それは、今後も企業がメンバーシップ型雇用を続けていくか、という問いに等しい。

しかし、メンバーシップ型vs. ジョブ型という議論の立て方は賢明ではないのではないか。
企業としても、ジョブ型雇用から得られるメリットは大きいと一般的には言えるだろう。ジョブがなくなれば(つまりジョブが不採算であれば)労働者を解雇できる(可能性が大きくなる)からである。そして、ジョブ単価の設定は同時に労働条件の切り下げを意味するだろう。
それにもかかわらず、ジョブ型移行への機運が盛り上がらないのはその理由が強力だからだろう。

第一に経済主体の移行コストである。
既にメンバーシップ型の下で雇用してきた労働者をどのように扱うのか。同じ職場内でジョブ型とメンバーシップ型の双方の労働者が共存できる可能性は小さいだろう。また、労働条件の切り下げは労働者の反発を受けて難しいかもしれない。経営者にとって、移行の便益が移行コストに見合ったものでないかぎり、移行はなされない。
大きいのは、法制度の問題である。現在の労働法制、保険制度等の法制度はメンバーシップ型雇用に対応したものになっている。ジョブ型は失業しやすく再就職もしやすい社会制度で成立しやすいモデルであることを考えれば、これに対応した社会と法制度を必要とする。しかも、導入後、少なくとも一時的には今は5%にも満たない失業率が跳ね上がることになるだろう。これは大きな代償である。

そして、政策によってジョブ型雇用に移行させることも困難を極めるだろう。それはいくら厚生労働省がジョブ型雇用を唱えても、結局雇用の在り方を決めるのは個々の企業であり、強制(ここで強制というのは押しつけくらいの意味である)の文脈で解決する問題ではないからである。したがって推進する政策はごく間接的なものになるだろう。

理想的にも見えるジョブ型雇用だが、これらを考えれば実現は不可能であると断言してもよいのかもしれない。むしろ、いわゆる正規雇用、非正規雇用の格差をどう埋めていくか、という具体的な方策を考えるべきなのかもしれない。労働組合について書かれた中村圭介(2009)「壁を壊す」(教育文化協会)がその示唆になってくれるかもしれない。労働者も企業経営に参加しているのである。

ところで、この手の二分法の議論においては、日本はしばしばハイブリッドという手法で乗り切ってきた経験があるが(たとえば福祉政策)、今回はそれは可能だろうか。これはまだ検討されていない。過程を支配する、というのは、対立する議論を収束させる手段を持っている、ということである。

2013年2月13日水曜日

【かんそう】また何も学んでいない

He or she never seems to have learned anything in his or her 24 years. That's too bad.

【おぼえがき】左右(および経済)

濱口桂一郎氏によれば、日本の左派は「成長」という言葉を嫌っているという。

hamachanブログ(http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/post-8159.html)

ジョブ型労働市場のヨーロッパでは、経済成長はジョブの増加を導き、それは就業者を増加させることになる。
したがって、成長とは左派のスローガンなのである。
対して、日本の労働現場では「成長」という言葉をハードワークを肯定する文脈で使用するところ、これがブラック企業的な文化を支えている、という指摘である。

ここでは「成長」という言葉を何に適用しようとしているか、というズレが表れている。

ところで、ヨーロッパにおいて「右派」とは何を目指しているだろうか。
近年話題になっているのは、財政危機に陥っている国々で「右傾化」が進み、外国人労働者を排斥することをスローガンとする政党が支持を集めていることである。
(ただし、外国人労働者が多くを占める産業は国内では不人気である、という事実が指摘されている点は見逃せない。また、このスローガンは最右派のものであり、国民もその事実を知っているようである。それにもかかわらずこのスローガンが支持を集めるのはなぜか、という疑問は政治学的にも興味深いだろう。)

これをもう少し抽象的に説明するならば、外国人を経済と社会から退出させることを示している。
つまり、右派は経済と社会から得られる利益(パイ)の享受者を限定することに目標を設定していることになる。右派は利益の再分配に関心を持っている、という傾向があるのかもしれない。

日本で右派といえば、しかし、少なくとも経済的側面ではアメリカ型のネオ・リベラルを指しているように見える。代表格は経団連だろうか。
そこでは財政赤字の削減と(産業および法制度の)構造改革が唱えられる。Deficit Scoldsである。
これは、ヨーロッパの社会民主主義が目指すような官僚制に重要な役割を与える福祉国家とは異なるものを目指している。

もっとも、右派といっても経済と政治ではそのテーマは異なっている点は注意しなければならない。
政治における右派とは、それは憲法9条、歴史認識と外国人参政権の問題に関するものである。
ここでは左派はまぎれもなく右派のカウンターパートとして存在する。
(ただし外国人参政権については、そもそも国民国家は政治社会の参加者を国民身分を有する者に限定している、という憲法学上の命題がある。少なくとも、同じように見えながらも外国人参政権と外国人労働者の問題は次元が異なる点が重要である。)
そして、ここでの右派の主張はせいぜい政治社会からの外国人排斥を示すにすぎない。
経済社会からの排斥を指してはいないのである。

これは、まだ日本国内では労働市場のinternationalizationが進んでいない、ということと関係がありそうである。
ただし、労働市場ではないものの、最近では社会から外国人を排斥する動きが見られないわけではない。
これはやがて日本全体で経済社会から外国人を締め出す動きにつながるのだろうか?

それでは左派は「排斥しない主義」なのだろうか。
これは難しい問題のように思える。
ヨーロッパにおける左派も「成長」という概念で外国人(社会における異質)の問題を押しつぶしているにすぎない可能性がある。人道主義の先にあるものを考え直さなければならないかもしれない。

近年では絆やつながり、包摂といった言葉が流行しているが(同様にヨーロッパでも左派のスローガンの一つは「連帯」であり、これは右派も異なる意味で好んで使う)、日本国民もこれらの言葉の曖昧さ(vagueness)に絡め取られてしまうのだろうか?